Ontha

音楽を聴く私たちを考えるゼミ

カラオケや歌番組によって貧しくなる音楽鑑賞と、その対抗策の検討

第2回のゼミで「正しい音」というテーマを取り扱った。平均十二律によって規定された正しい音程で歌唱することの価値を論じたものだ。


ディスカッションの中で、カラオケにおける歌唱の採点システムの問題点が指摘された。採点システムを中心としたコミュニケーションによって「高得点を出せるかどうか」という目的が当然のものとして設定される。歌唱に自信のない者にとって、評価される体験は窮屈なことであり、歌に対する苦手意識が形成されてしまう。また「人前で上手く歌って評価される」以外の楽しみ方がしづらいという声も挙がった。(“以外の楽しみ方”とは、具体的には、スナックで大して上手くもない歌をがなっている年配男性だ。あれは恐らく自分の気持ちよさのために歌っているのであろうが、そういった楽しみ方を競技化されたカラオケのコミュニケーションに持ち込むことは難しい。)

もちろん、ぼくもこうした考えに賛同した。その上でさらに「歌唱を評価するにしても、聞き手の感受性ではなく、コンピュータによる正誤判断に身を委ねるという態度が、何より深刻な問題だろう」と考えた。このことはPodcastで話しながらも思いついて少し言葉にしたが、もう一歩踏み込んで、整理しながら論を進めてみようと思う。

音楽鑑賞の意義は、多様な価値観を知ることだ

カラオケの採点システムは、ぼくたちの感受性を貧しくしている。カラオケの採点システムに限らず、歌番組の「見えるガイドメロディー」も同じだ。音楽の鑑賞を“判りやすく”するために、歌に対する見方を「上手/下手」という狭いパースペクティヴに押し込んでしまった。さらにそれは「正しい音程で歌えているか」とか、こぶしやビブラートなど、必要な技法が適切に使われているかという加点・減点式の評価にすり替わり、カラオケや歌番組を通じて広く受容されている。近年では「AIによる判定」などと、人知を超えた知性が判断しているかのような印象をまとい、ぼくたちの鑑賞態度から思考の余地をどんどん削り取っていく。これは間違いなく「感受性の危機」だ。

芸術鑑賞では、鑑賞者の持つ様々な感受性が尊重されなければならない。むしろ、鑑賞とコミュニケーションを通じて他人の感じ方を知ることこそ、鑑賞を通じて期待される学びなのである。作品に対する自分と他者の評価が違う場合、そこには価値観の違いや、解釈の差がある。他者の感覚を知ろうとしたり、自身のモノの見方を相対化することで、物事には自分の視点からは見えない別の一面が(たくさんの一面が)あることを学ぶ。こうして養われる複眼的な思考が、多様な存在を受け入れる社会、豊かな文化を醸成する礎となる。

カラオケや歌番組の仕組みは、単調・画一的な評価システムを刷り込むものであり、そこで発生・強化される歌唱との付き合い方は、理想的な音楽鑑賞とはかけ離れたものだ。

反対に、理想的な鑑賞態度に一役買っている好例を挙げよう。2015年から2020年にかけてテレビ朝日で放送されていたバラエティ番組『フリースタイル・ダンジョン』だ。この番組では、ラッパー同士のフリースタイル・バトルが行われ、いとうせいこうやKEN THE 390をはじめとした5人の審査員がそれぞれ勝敗を判定し、勝負の行方はその多数決によって決定される。このとき、審査委員共通の瞭然たる判定基準はなく、それぞれが異なる評価基準を携えている。評価には審査員の個性が宿っており、視聴者は「どうしてこちらに投票したのか」という関心のもと、審査員それぞれのコメントに注意が向くことになる。素人目には首を傾げる判定があったり、詳しい人たちの間で審判結果が議論されることもある。判りづらさはあるものの、視聴者は一連のコンテンツを通じてラップバトルの鑑賞技法を養っていくことになる。

Podcastでは、カラオケ嫌いが集まり憎しみも溢れたからか、つい「(平均十二律による)正しい音程」という尺度そのものの価値を貶めるような論調を用いてしまった。この場を借りて弁解しておくと、正確には、尺度の存在ではなく、尺度の運用方法に問題がある、と考えている。(西洋音楽理論という音楽への科学的なアプローチが、今日の音楽文化の発展に寄与してきたことは明白であり、その価値は充分に了解している。)

ぼくが問題として焦点を当てているのは「音楽鑑賞において単調で画一的な尺度があまりに強固になりすぎている」ということだ。本来であれば、音楽の鑑賞やそこから生まれるコミュニケーションは多様な価値観を知る好機であるはずなのに…である。ぼくは、今後のゼミの活動を通じて、このカラオケや歌番組が音楽鑑賞に与える問題の解決策を描いていく。そうした工夫の延長線上に、自由な(窮屈でない)社会の実現があると確信しているからだ。

寛容な態度だけでは、多文化社会は実現できない

最後に。多様な価値観の重要性を説くにあたり、現代では欠かせない議論を添え、問題の解決策の方向性を定めておこう。2020年、哲学者・倫理学者の檜垣良成が『「多様性」を叫ぶことの問題』で示した内容だ。この論文は、多文化社会をつくろうとするアプローチを分析し、その問題点をまとめたものである。ここでなされる最も重要な指摘は「多様性を認めるための運動は、単に自由を担保したり、寛容な態度でいるだけで果たされるものではなく、それなりに積極的な介入が必要だった」というものだ。

例えば、ドイツのアンゲラ・メルケル首相の「多文化主義〔Multikulti〕は失敗した」という発言を引いて檜垣は「この発言が示唆する内容の一部に、国内に異質な文化をもつ移民の流入を許容しながら、彼らをいわば放置し、彼らが社会に溶け込んだり、社会が彼らを受け入れたりするための努力をうまく機能させられなかったという事態が含まれていることは確かであろう」と延べている。「もちろん、だからといって力づくでの文化統合が望ましいと筆者が思っているわけではない。ただ、「寛容」や「自由」といった言葉が示唆する「放置」、「不干渉」の問題にもっと敏感であるべきだと言いたいのである。(中略)現代においては「放置」、「不干渉」では済まされず、建設的な対立が不可避である」とも。

Podcastでは、カラオケや歌番組の問題点を指摘するだけに留まってしまったが、ここからは異質な価値観同士が溶け合わさり、互いに受け入れられていく仕組みの検討を行なっていきたい。例えば、カラオケで高得点を狙って練習を重ねる人に、巧拙に縛られず伸び伸びと歌う楽しみを伝えるにはどうしたらよいか。あるいは、スナックでがなりたてる年配男性に、歌唱技法を磨く楽しみを伝えるにはどうしたらよいか。こうした課題を意識しながら、引き続きChooningやOnthaといったプロジェクトを通じて、異なる価値観が交差することで生まれるエンタメと、音楽の楽しみ方を主体的にデザインするための運動を仕掛けていくつもりだ。

イワモトユウ

デザイナー、エンジニア。音楽SNSChooning」を運営するチューニング株式会社の代表。好きなジャンル:デザイン、テクノロジー、社会科学全般。

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